障害者新聞

目と耳の障害者が作った新聞です。社会の本質を書いています。

私がスマホを持たない理由

最近、周りからよくスマホを持てと言われます。もう「耳タコ」のように持てと言われます。

だけど絶対に持ちません。
なぜ、私はスマホを持たないのか?

ここに書いてみようと思います。
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私がスマホを持たない理由は知性が落ちるためです。馬鹿になるのが嫌だからです。思考の論理展開を行える時間がなくなってしまうためです。

物事を思考するには時間がかかり、スマホを持ってしまうと確実に遊んでしまうため、頭が焼き切れるくらいの知力を使わなくなってしまうためです。

子供の頃、親に長時間ゲームするなとよく怒られました。論理的に考えていくと、親が子供にゲームをするなと言うのは、ゲームをすると思考力が落ちるためであると考えられます。

思考の論理展開が行えなくなると、思考力が落ちます。思考力が落ちると、物事を熟考したり、哲学したり、社会システムがどう構築されているのかを形而上学的に展開したりする知力が失われてしまいます。

頭を使っていないのだから、知力が落ちるのは当然です。知力が失われると勉強ができなくなります。ゲームしているとき、(戦略シュミレーションゲームを除く)脳は使われていません。

歩きスマホをしているときも脳は使っていません。快楽に耽っているだけのため、知力をふり絞っているときのような、頭の焼ききれる感覚が得られません。

知力を使わないと、会話してて5手先7手先まで相手の人間心理を読むことができません。論理と頭脳が短絡的になります。それでは思考していないのと同じで、私はつまらないのです。

将棋の羽生名人は1,000手先まで相手の出方を読めます。脳の中で論理的に思考を組み上げることができるのです。

快楽はとても楽しい時間のため、他者が快楽していても、他者を非難することはありません。でも、私は馬鹿になりたくないのです。

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スマホで遊んでしまう時間はその分、哲学する時間が減ってしまい、脳をフルで使わない時間を生み出してしまうことから、それがとてももったいないと私は感じてしまいます。

ソシャゲやって何か残るものありますか。知力増加しましたか。テレビゲームと同じで、何の知力も脳力も使わなかったときの、あのゲームが終わったときのむなしさをご存知ですか。

私が得たいのは、楽しい時間ではなく、知力のほうなのです。スマホはパソコンの機能を縮小しただけなので、機能性においてパソコンとさほど変わりません。

それなのになぜパソコンはよくてスマホは駄目なのか?というと、スマホはお金を使うことに特化したデバイスであるのに対して、パソコンはプログラムを書くことでお金を生み出すことに特化したデバイスだからだと私は答えます。

「楽しくお金を使う時間をたくさん確保したい」という思考が私にはありません。

むしろお金を稼ぐことのほうが私は楽しいため、快楽は避ける方向へと自分の舵を意識的に取っているのだと考えています。

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自分に子供ができたとしても18歳まではスマホを持たせません。スマホで遊ぶ時間を削り、その時間を科学の勉強に当てます。

なぜ、スマホで遊ぶ楽しい時間を減らしたいのかというと、子供に参入障壁を生み出したいためです。

社会においてスマホを使いこなせる人は多数派です。多数派に所得は流れ込みません。逆に、スマホのOSを作れる人は極めて少数派です。日本に100名もいないでしょう。

同じように、科学者や物理学者は少数派です。できる人が限られているのです。

需要が生まれたとき、少数派には収益が大量に生まれます。日本医師会が政府自民党に医師の数を増やすなと常に圧力をかけている理由は、医師の数が増えると医師一人当たりの売上高が落ちてしまうためです。

医師の所得水準を高止まりさせるには医師の数を増やすべきではないのです(だからお医者さんは激務です)。

逆に弁護士の数は増えましたが、その後、弁護士の所得はどうなったのか?を調べれば分かることです。

そして、物理学者や科学者は増やそうとして簡単に増やせるものではなく、技術習熟、知識の習得に膨大な時間がかかる職業なのです。

そのため、参入障壁が発生しており、誰にでも短時間でなれる職業ではないため、18歳までは勉強させたいというのが私の教育における考え方です。

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そもそも、論理的思考力が得られれば相手の手の内が読めますので、学校での試験も出題者の手の内を読んで答案用紙を埋められる能力(記憶力と思考力)が非常に多用されます。

社会人になっても使う能力のため、社会において欠かせないと思うのですが、スマホをやって思考力を落として、いったい何がしたいのか私にはまるで理解できません。

猿とか動物のように本能で動く人間になりたいのでしょうか。意味不明です。

技術習熟が簡単なのか、それとも簡単ではなく時間がかかるのかでモノを見ているため、快楽や楽しい時間のために動いているわけではないのです。

スマホで遊ぶ時間があったら、パソコンを使ってスマホのOSを作る側(少数派)にいたほうが、なんぼかマシです。

それ以前に哲学するには大量の時間が必要なため、スマホを楽しむ時間が確保できないというのが実情なのです。

私にスマホを持てというのは、私に「一緒に馬鹿になろうぜ!」「頭を使わず快楽に溺れようぜ!」と言っているのと同じです。

そんなの無理です。知性と知力を捨て去ることは「動物化」することと同義ですので、私には不可能なのです。

だからスマホは持ちません。

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