障害者新聞

目と耳の障害者が作った新聞です。社会の本質を書いています。

盲ろう者にとっての哲学とは何か?

盲ろう者にとって、哲学とは何か?

個人的な意見を書いてみようと思います。

哲学とは何かと言われたら、「論理を組み上げてから壊す行為」だと私は答えます。

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まず一つの事象に対して、10時間から20時間程度思考し、論理を組み上げます。そしてそれを壊すのが「哲学」という行為です。論理を壊し続けると、たまに壊れない論理が残ります。

それが哲学してできたもの「本質」です。哲学者によっては「真理」と呼ぶこともあります。たとえば、日本の高齢化社会の本質は何か?

それを哲学すると、高齢化社会とは

 『税金を支払う人よりも受け取る人のほうが多い社会』

のことだと私は答えます。
なぜ、それが分かるのか?とよく人に質問されることがあります。

思考実験においては自然科学のような公式が存在しません。

論理を複数回組み上げて、それを壊すという行為のなかで、どのような批判及び反証にも耐え抜いた論理だけが残り、それこそが本質となるのです。

そのため、本質を探す行為が哲学となります。

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哲学は所得を上げるためには全く役に立ちません。

あくまでも社会の本質、世の中の根源を確かめたいときにだけ無意識下のうちに思考実験を行い、論理を組み上げては壊すという行動を続けるのです。

哲学を続けていくと他者に哲学があるのか?、また、哲学的に生きているのかが分かります。

つまり、軽薄な人間と人間哲学をもった人間の区別が付くようになります。軽い人間と重い人間を判別できるようになってしまうのです。

人間哲学をもった人間は「やっていいこととやってはいけないことの区別の付く人間」であり、一本芯の通った本質を持った人間です。

そのような人間は資本の論理(利潤の追求)だけでは動かない特徴を持っています。

人間哲学を持った人間は札束では動かないということです。

そこには非合理性が存在し、非合理性があるからこそ、打ち手が読めなくなります。

人間的な深みがあり、人格者であることから、目先の損得勘定では絶対に動かない人間であることが判別できます。

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現代社会においては、お金をたくさん稼げる人間こそが優秀な人間とされます。

それはある意味において間違いではありません。

哲学的な人間は富を生まないどころか、己の組み上げた論理(哲学)を信じるため、協調性が低く、他人の眼を全く気にしません。

ただ人として深く、手の内が読めない、人間味にあふれた人間であるとも言えます。

哲学者はお金では動かないし、行動を起こす前にひたすら思考します。

思考し、論理を組み上げては壊すため、時事に疎く、そして本質のみを追求します。

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人とは何か?社会とは何か?

盲ろう者の人生とは何か?

生きることとはどういうことなのか?

など、金にならないことばかりを思考しているのです。
人間のもつ人間にしかない性質はなにか?等々です。
人間のもつ人間にしかない性質、それは「理性」です。

理性は人間にしかない感情であり、そして理性的な人間は他者を批判したり怒ったりすることがない。

だから私は己の利益追求のために怒る人が嫌いです。
距離を置きまくるのはそのためです。

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人間哲学を持った人間同士で会話をするのは非常に楽しいです。

なぜなら、どちらも己の利益追求のために動いてはいないため、手の内がまるで読めないからです。

深い人間との付き合いは楽しいですが、他人にどう見られているのかをまったく考えていない人間同士のため、周りからは馬鹿とか阿呆とか変態とか言われることもあり(それすらも全く気にしないのですが)、たまに悲しくなることもあります。

そんなとき、まだ自分は本能的な感情、情理や情緒を持っていたのだなと、感じることがあります。

哲学は社会の本質を知ることができるようになりますが、人間を判別(軽薄な人間には思いっきり区別したり無視したりする)こともあるため、あまりお勧めできる学問ではありません。

他者に対する興味が落ちるのです。

哲学は、一人で20時間程度は思考できるため、暇つぶしにはもってこいの学問です。また、深く生きたい人にお勧めの学問と言う事もできます。

一つ言えることは、自分が哲学的な思考をしていたとしても、それを他者に押し付けるべきではないということです。

次のエントリーでは、哲学の学び方を書いてみようと思います。