障害者新聞

目と耳の障害者が作った新聞です。社会の本質を書いています。

障害者は努力を止めないで

11月に入り生活保護課への手続きや都営住宅応募の手続きをしていたら、6日が過ぎてしまった。


☆☆☆


都営住宅の応募は毎回紙で郵送し応募する。紙以外での応募はできない。

年に4回、毎回同じ住所、年齢、電話番号、所得状況、現在のアパートの家賃、職業(私は生活保護者と書いている)

などを執筆している。


執筆には2時間掛かる。

目が見えないため社会福祉協議会の人にチェックをお願いしている。


切手を63円切手2枚と84円切手1枚を郵便局で購入し、応募している。

すべて終わるのに2.5時間掛かる。


東京都住宅供給公社は紙で受け取ったあと抽選し、応募者が落選したのかどうかを紙で郵送する。

そのため応募者は切手を3枚も買うのだ。


さらに紙で届いたすべての資料を人の手で集計し、紙を見ながらそれを表計算ソフトに打ち込み、毎回のすべての物件の応募倍率を1ヶ月後公表する。

当然データなら全部自動化できる業務である。


ネット見れば当選したのか落選したのかは分かるが、その1ヶ月後落選しました。

というはがきが届く。

はがきには「落選」というハンコが押されており、応募者6,384人(前回の応募者総数だ)の分はがきを紙で作成し、ハンコを押して、人の手で郵送しているのだ。


もしも1度応募したあと登録制にしたら毎回紙で書いて切手貼って郵送する業務が失われる。

そして応募結果もネットを見るだけですべての業務が終わる。

要するに応募者側も住宅供給公社側もほぼすべての仕事が失われ、無人化できる。


大量の紙を消費し往復の郵送でガソリンを撒き散らし、環境を破壊しまくって、紙に載ってる情報を毎回6,384人分もパソコンにデータ入力し、やらなくてもいい仕事を必死になって生み出し、無意味どころかマイナスの仕事をしている。

生産性ゼロの業務を私はしている。加担していることを実感する。


意味のない社会と意味のない機関と意味のない行為である。

公務員はこうやって必死こいて仕事を生み出し、自分の存在価値を社会に主張する。


ちな都営住宅において半年に1回応募できるファミリー向け物件は常に余っており、家賃も爆安であり、応募倍率1倍以下の物件もある。

ていうか応募者ゼロの空き家すらある。

ソース↓


■2019年5月都営住宅倍率表(--は空き家。)

応募倍率の低い都営住宅

出典:東京住宅供給公社(https://www.to-kousya.or.jp/opencms/export/sites/default/www_to-kousya_or_jp/toeibosyu/teiki/2019-5dl/bairitu/s-ippan.pdf

しかし東京都で一番多い単身者はファミリー向け物件に応募できない。

意味のない制度と無価値な社会である。


家族に死なれ孤立し一人になった高齢者が一番不幸になるのだ。不幸が不幸を呼ぶ悪循環モデルである。

都民の税金はこのように使われているのだ。

最大の不幸な人間であればあるほど救済されない社会システムが構築されているのだ。


…先月も4名がこのブログに寄付してくれた。

10円の人とか2,000円の人とか142円とかいう端数の人もおられた。


約2,200円の収入があった。それを毎月生活保護課に紙で提出しなければならない。

ゆうちょ銀行のオンライン残高ページをキャプチャして画像データにして、その画像データをコンビニへ持っていき紙へ印刷できるように


pdfファイルに変換ソフトを使って事前に家で変換をし、それをUSBデータでコンビニへ持っていき、印刷し、その紙の金額情報を

生活保護課へ歩いて1時間掛けて目が見えてないのに持って行き、紙で提出し、また1時間掛けて見えない目で家に帰る。


これもまた半日が奪われる生産性ゼロの業務である。世のため人のためになる仕事ではない、書類提出業務である。

そして生活保護課のケースワーカーはこの紙で提出した資料をパソコンにデータ入力し、また無意味で無価値な仕事を必死こいて生み出す。

もし画像データをネットにアップロードするだけだったら、業務量は4分の1で済む。30分以内で終わる。


アップしてない生活保護者の生活保護費を自動で減額するプログラムなんぞ、クソ簡単なため私でも書ける。

それをせず画像変換してコンビニへ持ってって、紙で印刷して片道1時間掛けて見えないのに歩いてと

意味のないことをしていることを実感しながら5時間ほど時間を消費している。


私は耳だけではなく、目にも障害を負っている。弱視であり中心視点が見えていないのだ。

そのため、エアコンが付いてるか見えない。水が出てるか見えない。ガスの元栓は見えない。


よって外出には多大な時間が消費されるのだ。

制度設計者がアホだと、こっちまでおぞましいほどのとばっちりを受ける。


この5時間、もし私が農家でメロンなり苺なり作物の収穫に時間を割いていたら

その収穫した果物を販売することで利潤が生まれ、その収益から費用(私の人件費とメロンの種代などだ)を引いたものが私の所得になる。

これをマクロ経済学では一人あたりGDP国内総生産国民所得)と呼ぶ。


生産的な仕事とは人に喜ばれるものを生産し、それをお客様が欲しがる価格かそれ以上にコスパの良い価格で販売し、果実を得る行為なのだ。

よって書類を作成するというこの行為は生産性がないため、ゼロなのである。


ゼロだと実感してて無意味に生きている。無意味な行為をしている。

無意味に生きていると障害者の生にまるで価値がないことに気づく。


20歳のとき経理の仕事がしたかった。視力はいまの4倍以上あった。

自分で学費を稼ぎその金でスクールに通い簿記1級を取得した。


そして22歳で東証一部上場企業の経理部に入社し、障害によって視力が4分の1に落っこち、会社で何もすることができなかった。

障害者の努力とか全部無意味である。


その後、プログラマーになりたかった。視力が悪くなり続けているため308社に落ちた。

視力が悪くなり続けているプログラマーの努力とか無意味なのである。

すべて落ちるからだ。


障害者になった。障害者になった瞬間から所得が半分以下になった。

障害者の努力とか全部無意味である。


そうこうしているウチに39年も生きていた。

もう良いかなと思ってる。そろそろ頃合いだ。もう努力するという情熱は失われた。


全部やったんだ。一生懸命に生きて、でも駄目だった。病気には敵わなかった。

私は聴力が失われ視力がほぼなくなり、もう今回の人生はクソゲーすぎてどうでもいいと思うようになった。


障害者の努力も頑張りも一生懸命さもすべて無意味だ。無意味であることを社会から教わった。

ここ1週間ほどなぜ生きるのか?

について考察していた。


分からないのだ。答えのない問いだからだ。分からない。障害者の生に価値などないのだ。

一生懸命努力してWordで履歴書と職務経歴書を書いた。


書いて応募したら半分くらいの会社からネットで半日以内のスピードで応募書類が送り返されてきた。

一般求人を障害者が受けると書類が送り返されるのだ。


障害者だとバレた瞬間人生が終わるのだ。いつものことだ。

かといって障害者求人はほぼすべて非正規社員しか募集していない。


所得は増えないどころか仕事が高度化しないのだ。

詰んでる。障害者の人生は八方塞がり。障害者になった瞬間から人生終わってる。


なぜブログを書くのか私には分からない。私には分からない。

ただ一つ言えることは世のため人のために尽くす!

そのための努力だけは、なぜかいまでもしているということである。


なぜ生きるのか?私には分からない。もう疲れた。もういい。もういいのだ。

ただ声にも出して世のため人のために尽くすことと、生活保護を絶対に絶対に脱却し納税者になってやる!

と叫んでいる。


別にもう全部の情熱と生命エネルギーは使い果たしたため、明日信号が見えず車に轢かれて死んでも、まあそれはそれでいいかなと思ってる。

詰んでる人生のなか努力する価値がどこにあるのか私にも分からない。


大学行きたくて予備校へ障害者ですけど受講できますか?

と言ったらお前は障害者だから3倍払えと言われるわ、大学で一番前の席に座ったら全部見えない聞こえないなか6時間何も見えず聞こえず、それ5日間繰り返し熱出して大学で倒れて、保健室連れてかれるわ。


障害者になって収入半分になって学費払えなくなり退学するわ。もううんざりなのだ。

もううんざりだ。うんざりなんだよ。

もう終わった。私の人生は終わったのだ。


障害者が生きる理由?

多分そんなものはない。生きる意義はもうない。ないのだ。

なんで生きているのか?わからないけど、ただただ漂流するように生きており、文章執筆の努力だけは辞めていない。


だから敢えて言いたい。

あなたが障害者ならこの生はもう意味がない。病気は段々悪化し、意味はないけど、努力を止めないで。

私が言いたいことはただそれだけである。

関連エントリー正直、目が悪すぎて手話とか見えないし、何言ってるのかも分からない。