いま、肢体不自由の障害者が執筆した本を読んでいる。
☆☆☆
その本には、社会は障害者にとって極めて生きにくい。適度に怒り自分の要望を伝えなければ、人間らしい暮らしはできない。
と書かれている。
たとえば、映画館での出来事だ。
脳性まひで歩行器(小さな車輪の付いた車椅子のことだ)に乗った著者が、一人で映画を観ようとした。
その映画館でしか上映されていない、どうしても見たい映画があったのだ。映画館は地下にあり、歩行器に乗った著者では、段差のある階段を下りられない。
支配人がやってきて、階段から落ちて怪我をしたら私たちの責任になる。だからあなたは他の映画館へ行ってください。
と言うのである。
要は障害者と係わると無駄なコストやリスクが発生する。俺は損得勘定で動いているんだ。
と言っているのである。
以前書いた、グループホームごと街から追い出される知的障害者もそのきっかけとなったのはこの経済合理性である。
健常者は楽をしたいのである。障害者と係わると手間と時間とコストとリスクが発生するから、何一つ良いことがない。
損をすると言っているのだ。
他の映画館へ言ってくれと言われ、著者である肢体不自由の障害者はここでキレた。怒りをあらわにして怒声を張り上げ、なぜ人間扱いされないのか?
なぜ、自分だけ見たい映画を観れないのかと支配人に罵声を浴びせるのである。
傍から見るとこれは障害者側がわがままを言っているように見えるのではないか。
偉そうにまくし立てているように見えてしまうのではないか。
その映画館の前にちょうど通りかかった若いカップルが私たちが怪我をさせないで、地下まで運んで、責任をもって面倒を見ますよ。
と言ってくれたから問題が解決したのだが、歩行器に乗った障害者というだけで、お金を払っても映画を観れず、それだけではなく、周りからはわがままを言うな、障害者のくせに偉そうに!
と言われるのである。これが障害者が偉そうな奴等と言われる所以である。
健常者と同じことをすると障害者な生意気なのである。偉そうに見られてしまうのである。
私たちは健常者より絶対的に身分が下という認識が、社会にはあるのである。
たとえば、健常者が不倫をすると不倫はよくないよ!といさめるだけだが、障害者の乙武さんが不倫をすると、障害者のクセに不倫とか生意気な奴だ。
と言われるのである。これは根本的に障害者の身分を自分たちより格下だと捉えていることの証左なのである。
日本人は馬鹿だから自分たちよりも韓国人や中国人のほうが身分が下だと思っている。見下しているのだ。
30年間海外に負け続けた日本が中国にはもうとっくの昔に経済規模で追い抜かれたのだが、もしも韓国にも国民一人当たり所得で追い抜かれたら、自分たちがどんだけ能力の低い国民性をもっているのかが、もう少しで分かるはずである。
もう少しでいま韓国に追い抜かれそうなところだからだ。私はこれを見ものだと思っている。
自尊心が崩壊した日本人が30年間海外に負け続け、見下していた韓国にも、ついでに私という目と耳の障害者にも負け続けた日本人の自尊心が木っ端微塵に吹っ飛んだとき、きみらがどう発狂するのかが、とても見ものなのである。
醜く(既に醜いが)綺麗に踊ってくれたまえ。ウケケ。
話が脱線したので元に戻す。
この著者を助けてくれた若いカップルは、彼の知り合いではなく、初対面の人であった。
初対面なのに障害者を助けますよ。と言ってくれる人が、日本社会には少なからずいるのである。
そこに私は一番驚かされた。
さて、ここからは盲ろう者(目と耳両方の障害者)の視点である。まず盲ろう者は映画館には行かない。
なぜなら、映画館に行っても意味がないからだ。
映画が上映されても全部見えないし、聴こえないからだ。よって無意味である。知的障害者はそのほとんどがグループホームか刑務所にいる。
映画館になんていない。
聴覚障害者もほとんどいない。だって聴こえないし。行っても楽しくないからだ。
視覚障害者もそうだ。見えないからあんまり行っても意味がない。
偉そうに怒り狂っているのはいつも歩行器や車椅子に乗った人たちなのだ。彼らは人として扱われたいのだ。
これは、極めてまっとうな精神性だと思う。
人として扱われたいから、そう扱われないときは、常に怒るようにしていると著者はおっしゃっている。
その光景が世間に認識され障害者はわがままで偉そうな奴等である。と見られているのである。
だけど、実際にはただ単に差別されただけなのだ。
体が不自由でなかった当時、普通に映画館に行き映画を観れた。それが肢体が不自由になっただけで人間扱いされていないから、キレているのだ。
で、肢体不自由以外の障害者はそもそも映画館には行かないのだ。なぜなら、人間扱いなどされたことが一度もないからである。
人間社会にいると苦痛以外の何物でもないからである。
映画行って、見えない聴こえないなか2時間まっ暗闇のなか座っているのは、もはや地獄。地獄の時間である。
だから私たち盲ろう者は映画館にはいないのだ。
いつも偉そうに怒り狂っているように映るのは、わがままな障害者に見えるのは、肢体不自由のかたたちなのだ。
彼らは彼らのことだけを考えている。
別にそれでいいと思う。
でも、刑務所のなかにうじゃうじゃいるのは、君らではなく、食べ物も仕事も住む場所もない、知的障害者の方たちなんです。
どうも私はそっちに関心があるようである。
だって知的障害者の方たちは食べ物もなくて困っているのだから。映画とかどーでもいいのである。
私たち盲ろう者も、自分も生活保護者なので映画館にはそもそも行かない。
なぜなら映画を観るお金がないからである。私たちは経済的に豊かな暮らしをしてはいないのである。
だから映画もコンサートも行ったことがない。なにもない。なにもないんだ。
もういい。もう今回の人生は、もういい。が、日常である。人間扱いされたことがないため、怒るという感情がもはやないのである。
絶望を通り越して無。無心である。無心にただただ生きる。働く。たくさん働く。社会のお役に立つ。
が、盲ろう者の生き方なのである。