障害者新聞

目と耳の障害者が作った新聞です。社会の本質を書いています。

るーすぼーい氏は天才ではない。彼は鬼才。文豪の鬼である

2000年代初頭、かつて日本のPCゲーム業界は天才たちの巣窟だった。


☆☆☆


天才シナリオライター田中ロミオを筆頭に、奈須きのこ鬼畜人タムー丸戸史明、そしてまだ無名だった頃の虚淵玄

極上の文豪たちがなぜかPCゲーム業界で、ゲームを作っていた。


2000年代の黄金期、一番の隆盛を極めたのは麻枝准の作ったCLANNADと、奈須きのこの作ったFate Stay/nightとの頂上決戦のあった2004年だった。

ここから違法コピーとダウンロードによってPCゲーム業界は販売が伸びなくなり、徐々に衰退していくことになる。


ただ2004年はそんな雰囲気はまるでなかった。2005年からゆっくりと衰退を始めていくことになるのだ。

そんなとき、私たちの前に一人の文豪が現れた。鬼の文豪である。その名もるーすぼーい。


2005年同人上がりの無名のシナリオライターは、たった一つのゲームソフトを市場に投入したのだ。

その名も法哲学と拷問器具のゲームソフト。

かの名作中の名作、「車輪の国、向日葵の少女」である。


車輪とは、かつて中世ヨーロッパにおいて受刑者の体躯を粉々に打ち砕く、拷問器具の一つであった。

それと同じように法によって人が押しつぶされ、蹂躙され、精神が粉々に破滅させられていく禍々しいゲームソフト。


それが車輪の国、向日葵の少女。通称「車輪」である。

当時まで、私はるーすぼーい氏のゲームソフトを同人でしかやったことがなかった。


ア・プロフィールしかやったことがなかったのだ。

優れたシナリオライターだということは知っていたが、車輪が発売されたとき、ネット上の某掲示板である批評空間には異常な雰囲気と盛り上がりがあった。


「PCゲーム 批評空間」でググレばいまでも検索1位で表示させるがその掲示板の特徴は、新作ゲームソフトに

感想を書き込めるだけではなく、点数を付けることができる。


そしてこの批評空間で平均点85点以上のゲームソフトは、ほぼすべからく名作。あるいは良作と言っても良いほど信頼性の高い掲示板であった。

車輪が発売されたとき何が起きたのか?


みんなして100点を付けたのだ。


■PCゲーム版車輪の国、向日葵の少女

車輪の国、向日葵の少女のPC版パッケージ

出典:Amazonhttps://www.amazon.co.jp/

(この画像は、車輪のPCゲーム版パッケージである。車輪を買うならPCゲーム版を買うべきである)

あれは異常だった。異常な情景だった。


私は未プレイ時にまず間違いなく「やらせ」だと思った。

失礼ながら、当時まだ無名のゲームメーカーだった「あかべぇそふとつぅ」が社員を投入して、匿名で100点付けてると思ってしまったのだ。


同人におけるるーすぼーい氏の文章力は優れていたが、だからといってそんな常軌を逸するほどの文豪と呼べるものではなかった。

しかし、秋葉原ではそのやらせ疑惑を無視するが如く、中古の車輪の国、向日葵の少女がもんのすごい高額で、具体的には中古なのに6,980円以上で販売されていたのである。


私も馬鹿高い値段でアキバで購入し、ついぞこのスーパーシナリオライターのゲームソフトを軽い気持ちでやってしまったのだ。

そしてゲームソフトの頂点に触れたのだ。


敢えて言おう。

るーすぼーい氏は日本の頂点に君臨するトップシナリオライターである。やらせではなかった。彼は本物だったのである。


彼は文筆の鬼、鬼才と呼べる文章を執筆するシナリオライターであった。

彼の代表作は正しく車輪である。

車輪の国、向日葵の少女であり、それこそが彼の最高傑作と言っても過言ではない。


車輪におけるるーすぼーい氏はまさに鬼だった。文学の鬼である。

ネタバレなしで書くが、車輪のストーリーは、かつて仲間を捨てて逃げ出した主人公が、昔の幼馴染と再開するところからストーリーは始まる。


主人公は逃げた。怖くて逃げ出したのだ。

だが、逃げることのできなかった幼馴染は捕まり、囚人と変わり果てた。そして拷問され村に軟禁され、拷問器具のなかで生きていた。


10数年が経ち、人を裁く側の人間に変貌を遂げた主人公が、素性を隠し、彼女たちを更生させ半殺しにし、鉄拳制裁ののち彼女たちの屈折し死んでしまったその精神性を叩き直す。

そういうゲームソフト。まさにニート説教ゲーム。

これこそが車輪のジャンルなのである。


ゲーム内ではなぜかユーザーが働けとかこの無職がとか、そんな感じでプレイヤーの上司から説教されるゲームである。

よってニート説教的なゲームソフトなのだ。


るーすぼーい氏の文章を読んでいると、私はいつも2人の作家を思い出す。

1人は天才シナリオライター田中ロミオである。ロミオの文章はいつも美しい。光り輝いている。


るーすぼーい氏の文章を読んでいるとね、ああ、ロミオってあっち側の人なんだなあっていつも思うのだ。

ロミオの文章は綺麗だ。汚れがない。


人を殺す際、ロミオは綺麗に殺す。

友達を肉塊のミンチにしてしまうときでも、ロミオの文章はいつも美しいのだ。

芥川龍之介のような綺麗な日本語を書くのだ。


それに対してるーすぼーい氏はどうだろうか?

人を殺す際も半殺しにする際もぐっちょんぐっちょんにするのだw。


るーすぼーい氏の文章はどす黒いのだ。文が重く現実的なのである。

美しいのではなくドブにまみれたたくさんの失敗ののち、この文章が生まれたとでも言うべき、醜くそして黒く光り輝いているのだ。


るーすぼーい氏の文章はね、この日本の頂点に君臨するトップシナリオライターの文章はね、とても情熱的なのだ。

たとえば葬儀のシーンである。


お父さんとお母さんがたくさんの遺産を残して死んでしまった。

お葬式の日、親戚のおじさんたちがたくさんやってきた。


主人公の小さな男の子が位牌(いはい)にお線香を上げているとき、ロミオだったら綺麗で美しい日本語を書く。

それがるーすぼーい氏はどうだろうか?


この日本の頂点に君臨するトップシナリオライターは、主人公が泣きながらお線香を上げているシーンで、主人公がお父さんお母さんと泣いているシーンにおいて、

両親が残してくれた莫大な遺産を親戚連中が奪い合う文章を、無残にも執筆するのである。


子供はいらない。ゴミみたいなあいつらの子供だ。言うならばゴミだ。

父親に似てクズに育つだろう。だが、あのゴミの残した大量の遺産はほしい。


莫大な大金はほしい。金だ。金がほしいのだ。だが、子供はいらない。クズの子供だ。よって、クズに育つだろう。

クズはいらないのだ。

と、そのクズ(主人公)の前で、醜い大人の遺産相続とも言うべき金を奪い合うシーンを、最高の日本語文章によって、ただただ垂れ流すのである。


これが日本の頂点の一角、るーすぼーい氏の光り輝く日本語文章である。

そして誰も止めてはくれない。

ゴミは要らないが私もお金はほしいよ!私もほしい!もっともっとだ!


取り分が足らない。ずるいぞお前は金だけだろ。俺はあのクズどもも育てるのだから養育費をもっと寄越せ。

主人公の顔面を何度も何度も畳に叩きつけながらこれを言うのだ。


お父さんお母さん、どこなの?うわーん、うわーん。と、子供が泣いている。そのシーンでこれを垂れ流すのだ!

まさにクズの極みである。


親戚連中がもはや人間ですらないその浅ましき肉の塊と成り果てたとき、それをただただありのままに表出させてしまい、そしてたった一人だけ主人公を救ってくれる人が現れる。


これは車輪のストーリーではなくその次回作、G線上の魔王というゲームをネタバレなしにしたかったため

私が少し弄った寓話である。似たようなシーンがG線上の魔王にはあるのだ。


こういうゲーム。


G線上の魔王のワンシーン

G線上の魔王のワンシーン1
G線上の魔王のワンシーン2

G線上の魔王は大量のクズが出てくるやくざなゲームソフトである。車輪には劣るがトップオブトップのゲームソフトだ)


…人間が壊れる姿を田中ロミオは美しく描き切る。それは彼が天才シナリオライターたる所以だ。

しかし、るーすぼーい氏は逆なのだ。


るーすぼーい氏は人間の醜さをそのままに表出してしまう。無残なものを、ドブ水を、そのままに描いてしまう。

どれほどに人間が醜い生き物なのか、それをそのままのドス黒さで書いてしまう鬼が、るーすぼーいという文筆の鬼なのだ。


車輪は神ゲーである。

日本の頂点のゲームソフトであり、我が国最高のコンテンツの一角を担っているゲームソフトである。


車輪のテーマは囚人を更生させること。ヒューマンドラマである。

ヒューマンドラマとは日本語で人間ドラマのことだ。


人間がドラマチック(劇的)に変化する生き生きとした、醜くても、ぶさいくでも、下手くそでもいい。

それでも、それでも一生懸命に生きる姿を描いたゲームソフトである。


いま買う場合、グロいのもそのままに描ききったPCゲーム版(18禁ゲームレーベル)をおすすめする。

全5章からなるが全ての章が素晴らしい。


とくに2章、4章、5章は異常な文章力で描かれている。

1章の契約のシーンの文章などは、あまりの法哲学の美しさに感動すら覚える。


法律によって君を守るよ。僕は法哲学によってあなたの尊厳を守る。

と、変わり果てやつれてしまい、壊れて元に戻せない精神状態の幼馴染の女の子に法文を読み上げ、語りかけるシーンは、あまりの常軌を逸した文章力の高さに手先が震えるほどである。


彼の力強い鬼のような文章を読んでいると、もう一人の作家を思い出す。

それは文豪ドストエフスキー氏である。ドストエフスキー氏は我が師匠である。


私もドストエフスキー氏もるーすぼーい氏も、こちら側の人間だ。

ロミオのような天才の文章は書けない。天才はいつも美しい。


ドストエフスキー氏は人々はいかに醜いのか。

そして醜い生き物である人間の精神を上手く破滅へと導いてやると、それは、どれくらいドブ水飲ませてやると、どのように豚のように美しく鳴くのか?

(滅茶苦茶であるw)


というドス黒き日本語(原文はロシア語だが)を得意とする作家である。

彼は人々の精神破壊を上手に壊すのが得意なのだ。

ドストエフスキー氏の世界最高文学である名作「悪霊」はそれに該当する。


人間の行動の論理的パターンを読み53手後にこの少女を完全犯罪で無罪で私は殺すことができることに喜びを感じそれを実行する。

そのようなクズの物語である。


るーすぼーい氏も一緒。私もこっち側。

そもそも車輪の主人公は正義感あふれる麻薬中毒者であるw。るーすぼーい氏、最高におもしろいぞ。この設定。


もうね。メチャクチャだから。だけど滅茶苦茶におもしろいから。狂ってるし、変人以外出てこねーし。

最高にえげつないどす黒い力強い鬼の文章力。それがるーすぼーい氏の日本語文章なのだ。


途中度々出てくるプレイヤーへの語りかけ文。

プレイヤーに向かって「あんたもそう思うだろ?」という文章なんかほんとうに素晴らしいし、醜く醜悪で、美しいのだ。


あとみんな間違ってるから私が正すね。

田中ロミオとPCゲーム業界の頂点で戦ったFateの作者、奈須きのこ氏について。


彼の小説の帯なんかで「やっぱこの人天才だよ!」

と載ってたんですが、天才という言葉は奈須氏に対して、すんごく失礼な言葉だから。


ていうか、奈須氏の日本語読んだことないでしょ。帯書いた人。

日本で一番優れたゲームソフトはロミオが作ったCross†Channelだけど、日本で一番おもしろいゲームソフトは、奈須氏が作ったFate Stay/nightです。


で、Fateでも奈須氏の小説でもなんでも良いから、彼が書いた本を500ページも読めば分かります。

奈須氏は努力家です。天才じゃないんだ。


ものすごい熱い文章。一生懸命。いつも一生懸命な前向きな文章。

それが奈須氏の呪術的な日本語文章です。


奈須氏を天才とか言うのは彼の努力に対してとてつもなく、すんごく失礼なことです。

奈須氏は努力家。

その努力の甲斐あってFateFGOを執筆した、日本でもっとも成功したシナリオライターです。


田中ロミオは天才。私達が努力でどうにもできない壁のさらに上にいる人。壁の向こう側の美文書き。

るーすぼーい氏は鬼の文豪。鬼才。


さらに丸戸史明氏は俊才シナリオライター。ロミオに近いけど実はかなり違う。

軽やかで流麗。そしてスマートな文章をさらさらっと執筆してくれる作家。

だからとても読みやすい。


ここに書いたシナリオライターは日本の頂点です。

もうひとりの天才である王雀孫と合わせて日本の頂点です。


るーすぼーい氏も当代最高のシナリオライターであり、日本の頂点の一角を担ったトップシナリオライターです。

彼の作品をやるなら私がいまやっているG線上の魔王でも構いませんが、彼の最高傑作をやりたいなら車輪をおすすめします。


車輪の国、向日葵の少女は日本の頂点です。

任天堂カプコンスクエニのゲームソフトで、この頂点の一角を担う日本のトップコンテンツを陥落させることはできません。


文豪ドストエフスキー氏と同じ土俵で戦える日本で唯一の作家なのだから。

車輪の国、向日葵の少女の最終章のあの場面を私は一生忘れません。

あの情熱の日本語文章を超えるものはこの世に存在しません。


任天堂だろうがカプコンだろうがコナミだろうが、あの超人的日本語文章力を超えることはできません。

あれを越したいならドストエフスキー氏の文章を持ってこなければ、国内でるーすぼーい氏に敵う文豪はただの一人も存在しません。


彼は人間がまっとうに変化し続ける姿を、生き生きと描写する日本の頂点のシナリオライターです。

日本の頂点と戦いたいならロシアの頂点をもってこなければ、お話にはならないのです。

鬼の文豪、鬼才るーすぼーい氏とは、私たち物書きにとってそういう存在なのです。