前に日本人の読解力は低すぎるという記事を何本か書きました。
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これとかもそうだけど、日本人は、馬鹿にされてるのに読解力が低すぎて、馬鹿にされてる側がそれに気づかない。こういうことがツイッターではよくあります。
前に、高学歴の自称インテリ評論家がツイッターで、”慶應幼稚舎出身者は精神的に安定していて育ちの良さは大正義なのである。”
という、クズの見本市みたいなツイートがありました。
かわいそうなので、(しかも礼節に欠くため)私はブログに貼り付けたりしないけど、この言葉のニュアンスには、日本の庶民は馬鹿で不勉強で怒りっぽく、すぐに犯罪を犯す愚か者の集まりだ。
日本の一般大衆(貧乏人)には近寄るのも汚らわしい、という選民性の文脈が見え隠れしていました。
高学歴でよかった!馬鹿な庶民には近づくべきではない!という強い意志表示があるのです。
ツイッターにはこういう高学歴自称評論家がたくさんいて、私は彼らと舌戦したり批判したりするの興味ないので、「何もしない」という行為を貫きます。だって、人としての魅力がないんだもの。
哀れな人間と会話してても意味がないため、何もしないんです。
ただ一つ言えることは20代の後半くらいまで高学歴の人たちってすごい頭もよくて、性格も素晴らしい人たちなんだろうなあって考えていたのですが、
こんな庶民を馬鹿にする人たちがそれを隠そうともせず、ツイッターで全世界に自分の愚かさを配信できるくらいに知性が劣化していることを認識して
ああ私はこういう人たちにはどれほど頭の回転速度や記憶力で負けていても、文章執筆スキルにおいては、負けようがないんだなあと自覚したのです。
彼らの問題は自己の優越性や優位性や選民性にあるわけではありません。庶民を馬鹿にしようがしまいが、私的にはどうでもいいです。
それに庶民側も読解力がなさすぎて彼らの言っていることが理解できないため、傷つくこともないし、一部の人間だけが読解できて可愛そうな人もいるんだなあと、思うだけでいいと思ってます。
では、彼らのどこが劣っているのか?
それは人間としての器です。人として小さい。小者であり小器なんです。
なぜなら彼ら高学歴自称評論家のインテリは、自分たちが如何に優れている人間かをツイートすることはあっても
- 日本社会を豊かにしたい。
- この国をどうにかしてより良くしたい。
- 世のため人のため、天下国家のために自分の人生を使いたい。
- 野心を持ってたくさん働き、大金持ちになりたい(ひいては大量に納税することになる)。
という人間哲学や社会哲学がなさすぎるため、小者なんです。
こんなちっこい人間に文章力で負けるわけないじゃん。
困っている庶民を見てあざ笑いエクスタシーを感じている小者の高学歴自称インテリなんかに、文章力ではどう手を抜いても負けようがないんです。
野心的に生きようが他者を救いまくろうが、どっちの道へ行こうとも、社会は豊かになります。
野心的にガンガン働けば、その分、ガンガン納税することになり、社会は豊かになります。
人を救いまくるNPOを立ち上げたり、病院を設立すれば、自分が死んだ後もそのNPOや病院は人を救い続けます。
社会のために問題を解決したい。社会を良くしたい。この国をよりよい国にしたい。
こういう価値観のない、人間哲学のまるでない人間なんて、恐くありません。大した文章が書けないからです。
文章に血が、情熱が、篭(こ)もらないからです。
ツイッターはほんと質の悪い、劣悪な文章ばっかりです。見ると安心してしまい、自分は駄目じゃないと感じてしまうほどです。
その知性(他者の能力の低さと自分の能力の高さを相対的に比較して優越感を覚える行為)は、とても恥ずかしく、私にとっては恥辱ですらあるのに、少しほっとしてしまうほど彼らの知性は低いです。
ああ、この国っていま生産性が世界18位なので、世界18位の国の高学歴自称インテリなんて所詮はこの程度なんだな、と。日本で1位の大学でも所詮世界では18位程度なんだな、と。そう実感するのです。
私はド誠実な文章を、ドブ水を啜(すす)るようなクソアウトローな文章を、今後もブログに書き上げていきたい。
社会問題を解決させる問題解決能力に特化した記事を書き上げたいと、少しは高尚で勇ましい文章を書き上げていきたい、と。
そう考えさせられる反面教師のツイートなのでした。