障害者新聞

目と耳の障害者が作った新聞です。社会の本質を書いています。

自己責任論と末期社会について

病院へ行こうとしたら生活保護者お断りと言われ、1週間家で寝込んだ。

持病ができた。


☆☆☆


この持病は痛覚を伴い、痛むため、文章を書いてて痛くて、病院にも行けず少し大変だった。

仕方がないと思う。


が、一生この痛みと共生するとなると、萎える事象ではある。

憂鬱になる。

病気を負ったのは自分だし、仕方がない。耐え忍ぶ。


日本のネットは自己責任論が大好きである。

しかし、彼らが言うそれは自己責任論ではない。

が、論理的思考力がないため、自分が自己責任論と異なることを言っている自覚がない。


たとえばの話だ。

大阪で身を切る改革が行われた。バスが民営化され、市バスの職員の生首が大量に切られた。


非正規公務員が大量に雇用され、ハローワークへ行くと職員が(ハローワークの職員は非正規公務員である)、死んだような顔でてきとうに仕事を振ってくる。

っていうか、目と耳失ったんだから家に帰れと言われる(実際に言われた。求人票を印刷してもらえなかった)。


大阪府の場合、役場の公務員の生首も大量に切られ、大阪維新の会の顧問を務める竹中平蔵が経営していたパソナ派遣社員が市役所で対応をする。

市バスがなくなり、市民病院がなくなり、正規の公務員比率が減少し、どんどん貧しくなる。


別にそれは良い。自己責任だ。

ネットのこの言説は極めて正しい。別に 大阪維新の会が間違えているわけでもない。


困ったときに絶対に助け合ったりしない社会。それは市民が選択したものであり、可もなく不可でもない。

そういう社会を選択したにすぎない。


アメリカの国民負担率は31.8%。収入に占める税率が31.8%。

フランスは68.3%で市民が支え合う社会である。


稼いだものをすべて自分が受け取るか、生活保護者の様な働かない無職に流すか。

どちらが正しいというわけではない。


強いて言えば、どちらも正しい社会であり、国民が選択した結果でしかない。

だから大阪の府政を批判すべきではない。


大阪人が選択した結果だからだ。少しアメリカ的なだけである。

大阪の府政について、それを他の都道府県民が批判すべきことではない。


職員の生首が切られる。

大阪市交通局は民営化された。平成30年4月からバスも地下鉄も民営化され、職員の生首は切られた。


別にそれはそれでいい。

国民負担率が低い国のように、それを自己責任とネットで切り捨てても、論理的におかしいことはない。


多少、人道的には関わり合いたくない人間だが、所詮はネットである。

どちらでもいい。批判している人たちはきちんと働き、納税しているのだから、彼らを批判するのもまた間違いである。


性格的に気に入らないとか、そういう感情的な批判でしかない。

生理的に合わないなら会話しなければ良い。


職員の生首が切られることに大いに喜べばいい。

しかし一つだけ論理的におかしいことがある。


大阪市交通局のビルの隣で経営していた居酒屋の店主や定食屋の経営者。

統廃合され消滅した市民病院の隣や学校の近くにあるそれぞれの店主や従業員が、ネットで自己責任論を吹聴していたとする。


それ自体はいい。

しかし、だ。大阪の職員が全員生首を切られ、それまで交通局の職員が居酒屋でたくさんお金を使ってくれた。


定食屋でもビールやつまみも含めて気前よく大量に注文してくれた。

それらがすべてなくなった。生首を切られ職を失ったからだ。


それによって、居酒屋の客が激減し、店舗が倒産した。飲食店も潰れた。

経営者と従業員も失業者となった。


するとどうだろう。

いままで隣人の公務員が生首を切られ、自己責任!ギャハハ!


と喜んでいたのに、自分の身に不幸が降り掛かってくると、彼らはそれを自己責任とは言わないのである。

え?自己責任じゃなかったの?意味不明。自己責任論者じゃなかったのか。


他人の不幸に対しては自己責任と吹聴する。大声で糾弾する。

しかし自分の身の上に不幸が降り掛かってくると、政府に助けを求める。


こんなはずじゃなかったと言う。

他人の不幸は自己責任。しかし、公務員の生首が切られ、店の客が消滅すると国に助けろ!と言う。


まさかこんなことになるなんて。と言う。

ニュースで日本人はいつもそうだ。おとなしそうな人だったのに、まさかこんなことをするなんて。


静かな街だったのに、まさかこんな凶行に及ぶなんて。

理経済学における「正常値バイアス」である。


他人が困っているとき、隣人が困っているとき常に助け合わない。

隣人がわんわん泣きながらナイフを振り回して殺戮を繰り返すまで助けない。


助けてこなかった。一度も助けなかった。自己責任だと斜めに構えて言い放ってきた。

自分が刺されるまで、地域社会に関心はなく、他人の痛みをむしろ大喜びしていた。


支え合いの心はない。別にそれはそれでいい。わんわん泣きながら刺してくる人間に刺されれば良い。

それも人の生き方だ。


しかし、他人を助けることは絶対ないのに、他人が不幸になると大喜びするのに、自分が不幸になったときだけ全力で税金を寄越せ!こんなはずじゃなかった。社会よ、早く助けろ!

元に戻せ。民営化を止めろと言う。いますぐ私を助けろと絶叫する。


他人の失敗は自己責任。しかし自分の失敗は他者責任。

責任を持って、全力で国は私を救済しろ!これは自己責任論ではない。


ただの利己主義である。

自分本位主義。自分のことだけ、自分の利益の最大化だけを追求し、追い求めているに過ぎない。


自己利益最大主義とでも言えば良いのか。

他人が困っているとき助けなかったのだから、ていうか、大喜びしていたのだから、自分が困っているとき、他人は助けたりするものなの?

違うでしょ。


他人が困っているときギャハハ!とか言ってる奴を助ける、手を差し伸べるような聖人君子な日本人が、それぞれの地域社会に複数いるの?

いないでしょ。


他人が困っているとき大喜び。絶対に助けない。文句しか言わない。

自己責任と格好を付け、斜めに構えて言い放つ。切って捨てる。


しかし自分の身に不幸が訪れると、自己責任とは言わない。

早く誰か助けろと言う。それは自己責任とは言いません。

論理的におかしいです。ただの子供が社会にわんさかいる。末期社会は論理的におかしい。


アメリカの若者みたく民間医療保険に加入できない、コロナに罹った貧乏な僕は、いまここで死を選びます。

と言えば良い。

論理的にはこっちが正しい。本来の自己責任論はこれ。

(おしまい)