障害者新聞

目と耳の障害者が作った新聞です。社会の本質を書いています。

盲ろう者にとっての歳をとるということは何か?(後編)

前編の続きです)

30代は10代や20代と比べて経験が圧倒的に多いです。

18歳で社会人経験が始まる以上、15歳の子供と30歳の大人とでは、歳の差は2倍ですが、社会における経験値は実際にはその100倍は差がついています。

10代の考える思考パターンの100倍の思考力と行動力を30代の大人は保持しています。だから10代を騙そうと考えて近づけば、誰だって詐欺的な行為が取れてしまうのです。

私はそれを文学的に非常に醜いと感じています。

☆☆☆

私は本能で動く大人が嫌いです。
社会経験の低い子供と接する場合、むしろ相手の知性まで引き上げることはできないだろうか?と私は考えます。

「思慮深く慎み深く」

慎重に他者の利益にもつながるよう行動しなければ、という義務を大人は背負わなければいけないと考えているのです。

私の場合、基本的に個体としての人間に対して興味がわくことはないため、また、まるで耳が聞こえていないため、人と会話することはまずないですし、他者に近づくこともありません。

ただインターネットを通じて私の持っている知性を差し出し、他者の知性をひたすらに引き上げることはできないだろうか?

と考えることはあります。
私は人間が嫌いですし、20代の初めの頃酷い差別を受けて、とても落ち込んだことがあります。

盲ろう者弱視・難聴障害者)だというだけで、なぜこんなにも酷いことをされなければいけないのだろうという苦痛を、どこに行っても受けたことがあります。

ストレスが溜まる環境では、弱者は常にストレス発散の材料として追い込まれ、食肉化されてしまいます。

これほどまでに酷いことをされるのか?これほどまでに努力は報われないのか?と、よく感じたものです。

ただ私は他者がすべて嫌いなため、健常者も障害者もすべからく好きではありません。

そもそも人としての個体に興味を持つことは極めて稀ですし、どのような状況であっても、他者を本能的に怒ったり批判したり罵倒したりするのを嫌います。

だから、この文章を読んでくれている大多数の人間に、私がリアルで出会うことは多分ありません。

それでも、ここで私が盲ろう者の哲学を開放している以上、知性をそちら側まで引き上げたいと思っていることもまた確かです。

知力を全開で消費することを義務付けるような、読み手の知的負荷の高い文章が書けたならば、大変にうれしいことだと私は考えています。

目標は論文領域下における「光り輝く日本語」です。

これが書ける人を私はこの世で1人しか知りません。
歳をとるということは、自分の体と心と長い付き合いをしてきたということです。

そうすると、何百という選択肢を選んできたことから、「いつもの自分」というものができ、また、同じ専門性に対して長い時間をかけてきたことで、その専門性に対して絶大なる自信を育むことができるようになっています。

要するに自信を持って行動を起こすことのできる人間になれるということです。これは健常者でなくても、盲ろう者でもそうです。自分を信じて長く生きていくことは、自分の自信につながっているのです。

そのためにも、いままで生きてきた自分と自分の弱った体を肯定し、認めることです。よく、この体で耐えてくれた。

障害により一部が壊れてしまったこの体に、眼と耳二つも壊してしまったこの体に、それでも生命維持活動をしてくれたこと。生きながらえさせてくれたことを体に感謝するのです。

だからこそ、自分を肯定する力がわいてくるのです。

意味のない自信でもいい。ただ、できる限り早めに自信を持って大量に行動を起こすことと、一つの専門性に対して弛(た)まぬ努力を永続的に続けていくことが、盲ろう者の人生を楽しくする原動力となります。

私は、みなさんが明るく楽しく元気よく毎日生きていけたらと、そう考えております。

また、人間の努力はたとえ盲ろう者になってしまったとしても、等しく報われるべきだと考えています。だからこのブログを設立したとも言えます。

第1話から「努力と所得」を科学しているように、盲ろう者と障害者、そしてその関係者が「報われる努力」とは何なのか?をこのブログにたくさん書いていけたらと思っています。

自分が生きてきた知識と経験を、まるで役に立たなかった悔しい努力と、すぐに結果に結びついたうれしかった努力のすべてを、ここで伝えることができたならばと考えているのです。