障害者新聞

目と耳の障害者が作った新聞です。社会の本質を書いています。

日本社会に寺小屋や私塾が必要な理由は、非定型モデルの福祉や支援が必要だからです。

今年になって起業して一番多く人から言われた言葉は「あなたには無理」である。


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たとえば、区役所へ行って起業助成金を受け取りたいと言うと、公務員が分厚くてボロボロになった本を持ってきて

「この条件の第3項にあなたは該当していません。だから助成金は受けられません。無理です。」

と言われるのだ。



パンフレットには誰にでも受け取れる!是非相談してください!と書かれている。だから、資金調達のために借入金をしたいと言うと、またしても公務員が分厚いカタログを持ってきて

「第6条の第5項にあなたは該当していません。あなたに貸すお金はありません。無理です。お帰りください。」

と言われるのである。



生活保護とかも(というかすべての行政サービス、福祉サービスがそうで)、一つでも該当しなければ、支援や福祉を受けることはできない。


障害年金助成金、給付金、各種手当、所得及び税額控除、都営住宅など、すべてそうである。


困っているかいないかではない。

目の前にいる人間の財布にお金が31円しか入ってなくても、条件に該当しなければ公務員は容赦なく切り捨て、お帰りください。と言ってくる。


だから駅から区役所に行く道の途中にホームレスが倒れているのだが、公務員はそれを助けたりしない。

条件に該当しないからである。困っているかどうかが大切なんじゃない。


条件に該当するかしないか。国と公務員が求める書類をきっちりと作ってきたか、こなかったか、の違いである。


そのため、すべての条件に該当しない人間はホームレスになる。そして駅から区役所への道すがら、ホームレスがポツポツと道端で倒れているのだ。


あの光景を見ると制度が思いっきり間違っている。というか、制度の隙間から零れ落ちる人間が後を絶たないのは、定型の条件に該当しない人間すべてが福祉を受けられず、その人間は予想した以上に多いことが分かるのだ。


最近私が寺小屋や私塾が必要だと感じるのは、福祉や支援の条件に該当しない人間が多すぎるためだ。


複雑な審査によって生活困窮者が零れ落ちていく姿を、よく眼にするためだ。


私塾や寺小屋があれば「困っています」と言う人に対して、とりあえず、なかへお入りなさい。と言える。


民間が作っている寺小屋であれば、制度を柔軟に非定型にすることができるのだ。そのため、「何でも屋」になれるのである。


条件に合うかどうかではなく、どれくらい困っているのか、困っていないのかを考量して、この人を放っておいたら今日にでも入水自殺しかねないというほどヤバい表情をしている人に対して、とりあえずここに泊まって行きなさい。

と言えるのだ。


制度をフリーハンドに緩く、そして何でも屋的に目の前に居る人の話を聞いて、条件を設けず、一つでも該当しないと「お帰りください」とは言わない支援をするには民間の非定型モデルの福祉しかないんだなと実感するのだ。


ズルい人が資料をきちっと揃えるだけで行政サービスの福祉のすべてを享受できるように、生活困窮者はそれほど頭が回らないし、しかも借金を抱えたりアパートから家賃が払えず追い出されそうな不安定な精神状態で行政サービスを求めて、区役所にやってくる。

そういう人がきっちりとした書類を作れるはずがないのである。


さらにもっとも生活に困窮している人は、親族からの縁を絶たれていることが多い。


周りから疎遠にされてしまった人、人との繋がりがない人が、一番の生活困窮者なのだ。


しかし、たとえば都営住宅の入居条件は連帯保証人になってくれる親族が居ることである。


そのため、あんまり生活の困窮していない人ほど入居できてしまい、ホームレスは親戚一同から見放されてしまった極めて生活に困窮している人たちなのだが、道端に倒れているホームレスは連帯保証人欄を執筆できないから、都営住宅に空きがあるのに、一番困っている人たちなのに、入居できないのだ。


あの情景を見ると私は「日本社会は狂っている」と考察してしまう。すべての条件に該当しない人間はお帰りください。

と言える。


条件に該当しない客を公務員は追い返すことができる。


だから寺小屋や公民館や私塾がお財布に30円くらいしかお金が入ってないアスファルトの上に倒れている人を何でも屋として助けることは、極めて社会を豊かにしてしまうと感じる。


以上の理由から、日本社会にはこれらの非定型モデルの民間の施設が必要なんだろうなと最近考察するのである。