障害者新聞

目と耳の障害者が作った新聞です。社会の本質を書いています。

障害者差別と、優しい人の多く住む街の見つけ方について

なんでかはよく分からないけれど、私は障害者差別反対!

とか言わない人間である。


☆☆☆


なんでなのかがずっと考察してるんだけど、よく分からない。

たぶんもう生きる熱意がないためだと思う。生きる情熱がもう残されてはいない。


だから車いすの障害者の方みたいに障害者差別断固反対!

と言ったほうが良いときでも言えないのだ。

彼らについて厚かましいとは思わないし、逆に正しいとも思わない。


一言で言うと自分でもその事象はよく分からない。

経済学的には分かるのだが(それは下記で後述する)、自分の生にとってはよく分からない。


欧米で黒人の地位が確立されたのは黒人差別が起きた時、たとえば黒人が白人の警察官に理不尽に射殺されたとき、毎回彼らが暴動を起こしたからである。

だから車いすの方が毎回怒り狂ってネットで炎上を起こしたり、社会問題化させてそれを収益化させるのは実は価値がある行為である。


日本人は耐え忍ぶ、自己責任という言葉が好きだ。

自分が貧しいのは自分に責任があるからだと考察する民族である。要は、まともな真面目な人たちなのだ。


マクロの問題、たとえば派遣法の改正で工場内派遣が解禁されたことや、非正規社員の増大は個人の問題ではない。

マクロ(国家規模)の問題であり、個人の努力でどうにかできる問題ではない。


本来、韓国やフランスでは個人が損失を被るこういった規制緩和増税については、毎回暴動やデモを起こすことで政治家に支持率の低下(自分の店の商品などがデモや暴動のドサクサに紛れて盗まれまくるため、暴動やデモが起きると政治家の支持率が低下する)や、命の危険を認識させるプレッシャーを与えることになる。

日本人は韓国人がこういう蝋燭(ろうそく)デモや1500回を越す集会デモやウェディングカーデモで毎度発狂しているのを見て民度が低いと言う。


果たしてそうなのだろうか。まあ、客観的に映像だけ見て民度が低いと私も思うが、それは不適切な行為なのだろうか。

私は昔、神奈川県の県庁所在地の横浜市に住んでいた。

しかも横浜駅のすぐ近くに住んでいた。はっきり言ってメチャ住みやすい街だった。


だけどいまは横浜市が好きではない。

なぜか?街によって親切な人や優しい人がたくさんいる街とそうでない街がある。


私は横浜市で不親切にされたことは一度もないし、実際かなり快適だったが、もっと好きな街ができた。

親切な人や優しい人、困っている人を放っておけない人が多くいる街にはそれなりのシグナルがあり、経済学的な判別方法がある。それは何か?

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