この記事、クソワロタ。
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この記事↓。
■平成30年4月入社の内定辞退者、6割を越す!
出典:産経ニュース(http://www.sankei.com/life/news/171113/lif1711130009-n1)
別の記事では、中小企業は内定辞退者が多く、人が集まらないと学生を批判しています。
だけど、企業は5年前、学生に何をしたのかを、もう忘れてしまったのでしょうか?
■内定取り消しの記事
出典:産経ニュース(http://www.sankei.com/economy/news/170915/ecn1709150044-n1)
最近はアベノミクスの円安政策による超好景気と人手不足によって、内定取り消しを行う企業はもうほとんどいません。
しかし、就職氷河期だった2012年度の当時、企業のふるまいはほんとうに酷かった。
学生をゴミ以下同然に扱った企業が、5年後学生優位の市場になったことで、彼らを批判する権利があるのでしょうか。
これは形而上学(アリストテレス曰くやられたらやりかえせ!論)である。
適切な循環は正しい社会を生むことになる。
悪いことしたら天罰が下るのは、そこに論理性と法則性があるからだ。
いまの学生は5年前の学生の苦しみを覚えている。ネットで当時の事実をいま見ることができる。
企業が当時の学生に何をしたのか?
どれほど酷い仕打ちを当時の学生が受けてきたのか?それを今の学生は知っている。
だからこそ、循環理論の形而上学が適用されるのである。これは感情論ではない。論理性・法則性である。
当時の学生の苦しみ、内定を取り消され社会問題になったときの彼らの胸の痛みを、いまの大学教授も学生も知っている。
だから、循環が生まれている。自業自得なのだ。やられた分の悪業が適切にやり返される。
悪いことする人がもっといなくなればいいと思う。
いまの学生は当時内定を取り消された先輩大学生がひきこもりになり、現在の社会問題になっていることを大学教授から学んでいる。
大学教授は教え子が苦しんだこと、企業から受けた非倫理的な仕打ちを覚えているし、いまの学生にそれを教えている。ここに論理性が働くのだ。
だからいまの学生は、1社内定が採れても、より良い企業からの内定を貰うために、更に就職活動を続けまくるのだ。
当時の企業がより良い学生以外のすべての学生の内定を取り消したことと、いまの学生がやっていることは同じ行為だ。
企業は自分が悪いことをするのはよくて、学生がそれをマネすると、なぜか、最初に悪事を開始した自分たちは容認し、無罪放免し、マネした学生を批判する。
ここには「自分さえ良ければいい」と言う、極めて愚鈍な精神性が秘められている。
グローバル競走に25年間負けに負け続けた日本企業の哀れで惨(むご)たらしい、成れの果ての姿だ。乞食の様な国の企業だ。
自分がしたことをされると、当時の学生の苦しみを無視しているから、自分だけ苦しむのはズルイ。と言い始めるのだ。
実に大人気ない。というか、まともな大人がいない社会だ。
そういうメカニズムが感情論ではなく、法則性として存在するほうが、適切な住み良い社会になる。
まさに今回の辞退者増は、辞退するのを前提に複数企業を受けまくり、一番待遇の良い企業を選定している学生がいるため起きた現象である。もう学生は、ハナから、入社前から企業を全く信頼していないのだ。
そして、5年前内定取り消しを実施し、一番優秀な学生だけを引き抜いた企業とまったく同じことをしている。
だから、思いっきり自業自得であり、自己責任であると言える。
自己責任という言葉は非常に稚拙であり、社会問題に対して「私は一切の責任がない」という責任逃れの言葉だ。
この言葉は子供が使う言葉である。
小学生が学校のガラスを割ったり、カンニングしたり、ズルしたときに、「俺じゃない」と責任逃れしているのと同じ思考だ。
だけど循環として今までしてきた悪行が、そのまま返ってきているのだから、これはもう仕方が無いのだ。
かつての自分たちの行いを省みて、少しはまともに生きるべきだと思う。
それほどに売り手優位(学生優位)の就職市場になったことを、私は歓迎しているのである。
新卒社員は全く信頼していない企業を最大限利用し、スキルが上昇したらフリーランスになり、オサラバだ。
それは先輩が内定取り消し後ショックで家にひきこもり、寝込んでしまい、その様子を教授が大学の授業で聞かせ、いまも病院に通院しているから当然なのである。
日本企業はこういうひきこもりを「それはお前の自己責任だ」と言う。だったら、いま内定辞退されている状況も「お前の自己責任」なのだ。
社会問題に対して社会の一員としての責任の一切を負おうとしない。ならば、自業自得なのだ。
哀れな国である。そして、アフォだな。アフォな循環だなと思う。