回転寿司で糖質制限するため、ジャリだけ残す女性たちに対して、批判する人達がいます。
お金を支払い購入した寿司をどのように扱おうとも、それは彼女たちの勝手のため、自分は特に問題のない行為だと考えています。
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この行為を問題視する人間は「金では動かない人間」、つまり、いい奴です。金では動かない人間について少し哲学してみましょう。
【盲ろう者の哲学シリーズ】スタートです!!
昭和の時代、母親が作ってくれたご飯を食べるとき「いただきます!!」と言わないで食べると、父親に殴り殺されましたw
ご飯を食べ終わったら「ごちそうさまでした」と言い、作ってくれた母親に感謝の言葉を伝えることも、当然の行為でした。
父親は鬼のような奴で(どこの家庭もそうでしたw)、倫理感と他人様に感謝する気持ちを植え付けられました。
それらは個人の主観であって、昭和の教育が正しい訳ではありません。ただ、人として適切なだけです。
昭和生まれの一部の人間は金では動きません。やっていいことと悪いことの区別を、父親に殴られまくることで徹底的に教え込まれています。
中学校の先生も生徒が万引きや飲酒や喫煙をしたら、ボコボコに殴り殺します。
いまでは恩師との会話も笑い話で終わりますが、当時は本気で殴ってくるため、「これはやっちゃあいけないことなんだ」ということを体で教え込ませられるのです。
そのため教師は恐怖の象徴でしたし、ほんとうに生徒のためを思って教育してくれていることが伝わってくるものでした。
PTAなんぞクソ食らえ!!
という熱い教師がおり、親の苦情より生徒の躾(しつけ)のためにクビも覚悟して熱血教育する、そういう熱い時代だったのです。
そのため、シャリだけ残して、それをわざわざツイッターにアップして、作ってくれたお寿司屋さんの眼にとまりやすくし、彼らを悲しませるという行為は、我々昭和の人間からすると「やってはいけない行為」に該当します。
父親にそう躾られたからです。
「人様を悲しませる様な、思慮に欠いた行為はするな」
「人として正しく生きてみろよっ!!」
と叩き込まれたからです。
だからといって、いまの時代は平成です。昭和の躾が正しい訳ではないのです。
昭和はあくまで人間哲学を重視した、人と人が1対1で本気で向かい合った時代であり、それが正しいとか、そうすべきだと私は思っていません。
人間的にどうなのか?
ということです。
そのため、シャリを作ってくれた寿司屋を悲しませるようなことをする人間を、昭和の人間は好まないというだけです。ただ近づかないというだけです。
金さえ払えば何やったって許されます。社会はそういうルールです。法律に引っかかることはありません。
ただね、哲学をもった人間は、金やルールでは動かないだけです。哲学は自分に法より厳しいルールを強いているだけです。
ただそれだけのことです。不愉快になるのは、私がツイッターの残されたシャリを見て胸を痛めたから、です。
昭和の人間はそういう奴等です。そいつに人間哲学があるのか、芯の通った人間なのかを、昭和の人間は見抜こうとするのです。
つまんねー生き方すんじゃねーよ!!というやつです。
人としてやってはいけないことは、己に鉄槌を下すほどの高い倫理感を持つのが、古い人間の証であり、昭和の人間哲学なのです。