障害者新聞

目と耳の障害者が作った新聞です。社会の本質を書いています。

焼き鳥屋の串とマナーと人間哲学について

焼き鳥屋の店員さんが「折角串に刺して焼き鳥を提供しているのだから串から外さないでそのまま食べて欲しい。」

そう、ネットで言っただけで、日本では炎上が起きました。


☆☆☆


炎上になった理由は、


「客がどんな食べ方をしようと客の自由だろ」。「お金を払っているのは俺たち客なのだから、その後、客が焼き鳥をどうしようと客の勝手だろ」というものでした。


焼き鳥屋さんは強制しているわけではなく、作り手側の視点としてできたら串から外さないでそのまま食べてもらえるとありがたいと話していただけです。


「金を払えば、払った者がその商品を好きに扱っていい」は正論です。


これは法律にも抵触しないし、犯罪にもなりません。原則というやつです。でも、原則を振りかざす人間はえてしていつも、「小者」であり「小器」であると私は考えています。


もしも昭和の人間だったらどう考えるのか?


昭和の人間だったらこう考えます。


金を払ったのは昭和だろうと平成だろうと客です。客が焼き鳥をどう食べようと自由です。


だけど、作り手側が串から外してほしくないと言うのであれば、昭和の人間は法律よりも厳しい己の人間哲学に従います。


よって、他者が嫌がることはしません。料理を作ってくれた人間に昭和の人間は必然的・自動的に感謝の心を持っているため、「金を払っているのは俺たち客なんだから、どう食べようと自由だろ!」などとサルやチンパンジーのように喚き散らしたりしません。


料理を作ってくれた人間が悲しむような真似を、昭和の人間哲学は決して許すことができません。


そのため、串から外さないで食べてと言われれば、それがその場(焼き鳥屋)でのマナーであると考え、串から外さないでそのまま食べます。


私が自由に食べるという快楽(サルの本能)よりも、料理を作ってくれた人に感謝するという理性(人間哲学)が勝る生き方、つまり人として適切でありたいと願う生き方をするのが昭和世代の人間です。


だから昭和世代の人間は「それはあなたの自己責任」という言葉を使いません。近所の人間で困っている人がいたら「お互い様」なんです。


「法律で人を助けなければいけない」などという条文は載っていません。でも、法律に載っていなくても、困っている人間を助けるのは人として当たり前のことなんです。


そんなの人間なんだから基本スペックのなかの一部であり、困っている人がいたら「どうしましたか?何かお困りですか?」と、こちらから訪ねるのが昭和という時代の常識だったのです。


「金さえ払えば俺らの自由だろ。」「法律に載ってねーだろ」とかいうガキを見ていると、日本人は小者にそして小器に、この国の人たちは大いに劣化していることがよく理解できます。


私は小さな人間と会話するのを嫌います。そのため、最近あまり人と会話しません。数名との会話で十分であると考えています。


両親共働きで親から徳目教育(道徳)を教わらずに精神が未熟なまま年月だけ重ねて年齢だけ大人になると、人格こじらせますので、そういう人間とは近づきません。


なぜなら、子供との会話は疲れるからです。