障害者新聞

目と耳の障害者が作った新聞です。社会の本質を書いています。

ブログが書けないとか書き方が分からないとか、正直意味がよく分からない。

ブログを途中で投げ出してしまう人がかなりの数に上っています。ライブドアブログだとだいたい9割は、途中で投げ出していることが分かります。


☆☆☆


確かにライブドアブログは「長いものには巻かれろ主義」なので、有名でないブログにアクセス流入がないことは事実です。


だけど、ブログが書けない、書き方が分からないという意見には理解に苦しみます。


そして、自分が書けないことをライブドアブログの運営に責任をなすりつけたり、文句を言ったりする人間にはさらに理解に苦しめられます。


ブログ記事が書けないのであれば、PCの前に座って1日16時間書けばいいんじゃないですか?


私はそうしていますよ。書くネタがないなら、ネタが閃くまで1日16時間ずつ読書していればいいのではないでしょうか?


読書もしないで文章を書けるようになると思っているのですか?


会話文や短文と、ブログの長文は異なります。長文には論理があり、文組みがあるので、一朝一夕に長文が書けるわけではなく、1本の論文を書こうとしたら最低でも1,000本は論文を読む必要があります。


1日16時間ずつ論文を読んでいれば、自然と頭のなかのシナプスがつながって、勝手に文の型が覚えられていき、文組みができるようになります。


そうするといつの間にかスラスラと文章を組み上げ、書き上げることができるようになっているのです。


何も努力しないで、ブログが書けると思っているのですか?


どのような専門性であっても1万時間の努力は不可欠です。長文執筆も1万時間の読書と執筆活動があれば、もうあとは何も考えずとも頭のなかにある読書してできた膨大な情報が、独りでに結びついて論理を組み上げることができてしまうのです。


書けないなら気が狂うほどの努力をしてみればいいのではないでしょうか。


これは人から教わることではなく、掛けた時間、消費した時間がそのまま本人の実力となって返っていく類のスキルであり、努力したら努力した分だけ実力となって自分に返ってくるものなのです。


人から教わっても近道にはなりません。小手先のテクニックではなく、論理を組み上げるという知力を振り絞る行為が不可欠になるのです。


だから、書けないなら書けるまで読めばいいだけなのです。


自分の書きたい文章と類似した文章を1日16時間ずつ読めば、いつの間にか自分もそれに似た文章を書き上げることができるようになっているものです。


夏目漱石の小説を1冊読んだ後に文章を書こうとすると、自分の文体が夏目漱石の文体と類似していて驚くことがあります。


芥川龍之介の小説を読んだ後に記事を書こうとすると、似たような文体になっていることに気づきます。


結局のところ、どれだけ読み込んできたのかが直接的に反映されるのがブログであり長文です。


その後の美文や自分の崇拝する文学がどこにあるのか、どんな影響を受け、どこに傾倒していくのかなどは、さらに文章を読み込んだ先の話です。


私は自分で「総科の学問」を見つけたため、それに傾倒してその語彙選定の妙(非論理における論理性)を文章執筆において採用していますが、こういうことをやるには、まず大量に文章を読み込まなければ、頭のなかにある語彙を繋ぎ合わせて文章を執筆している以上、語彙を知っていて記憶していて使い方を知っていないと、長文を書くことは不可能です。


自分、長文がもっとも優れた文章だとは思っていません。短文で直接的に相手に伝わる文章も素晴らしい文章だと思っています。


だけど、ブログを書く以上、必然的に長文を書くための努力が必要不可欠になるのです。論理性を伴わない文章は駄文だからです。なのになんで、努力しないの?


努力なんて呼吸するようにするものでしょ。生きている以上、努力するのは当たり前だと思うのですが、何も努力しないで、ブログの書き方、小手先のテクニックを得ようとしているのが間違いなのではないでしょうか?


と、たまに考えています。よって、書けない人は書けるまで何十冊何百冊と自分が書きたい文章と類似した文章を読み込むことです。


そうすると、膨大に読み込んだあと脳みそが引きちぎられるようになって、全能感がわいてきます。


まるで自分が全知全能の神にでもなったような感覚にとらわれます。それは脳のなかでシナプスがつながった証拠です。


そしたらもう勝手に独りでスラスラと文章が書けるようになります。その後は1冊も本を読まないでも、何でも書くことができる様になっています。


実際、自分昨年の8月にブログを開設してから1冊も本を読み終わらせていません。書くのに忙しくて、読む時間が取れないのです。


それでも1日1万文字ずつ書くことができています。膨大に書きたければ、膨大に読むことです。


論理を知っていなければ書けないし、論理が頭のなかに型として出来上がってしまえば、もういくらだって書くことができるようになります。


辛いのは最初だけです。こんな読んでいるだけの行為で書けるようになるのかよ!と最初のうちは腹正しく思われるかもしれませんが、自分の感情を無視して読みまくりましょう。


読書が一定量を越えると、いつの間にか書けるようになっているものです。文章執筆は、読んで書いての繰り返しです。


長文執筆は一種のゆるい専門性です。膨大に読書すれば閾値(しきいち)をオーバーして、いつの間にかスラスラ書けるようになっているものです。


そこまで努力を続けてこれるか、これないかの違いでしかないのです。近道がないということだけ、覚えておいてもらいたいです。