昨日、ハム速というまとめサイトに記事が全部コピーされた。
というかコピーされてた。
☆☆☆
これ↓
■ハム速
出典:ハム速(http://hamusoku.com/archives/10378244.html)
月間アクセス数1億のサイトにブログが掲載された。
3年前に記事のアクセス数10くらいのときに書いたものが、月間1億のサイトに掲載されたのだ。
緊張して発熱したり、喉が腫れたりして大変だった。あと左下の腸が痛い。
以前、Twitterやってたとき堀江さんってすごいなあ。
毎日誹謗中傷を受けてるのに動じる背きがない。
強い人だなあ。
ってツイートしたら、堀江さん嫌いな人に障害者死ね!って言われた。
100人くらいにアクセスされたら嬉しいのだが、2万とか3万とか入ってくるから、
社会が怖くなってしまうというか、熱が出るのだ。
ハム速の管理人とかイケハヤさんとかすごいなあと思う。
月間で200万人とか1億人とかの人に見られてるんでしょ。
とてもじゃないけど、自分がその立場だったら、精神を維持できるのだろうかと考察してしまう。
イケハヤさんの本1冊読んだことがあるけど、死ね!死ね!言われると冗談ではなくほんとうに死にたくもなる。
と書かれていた。本心だと思う。
センス(感覚)で勝負する人。
感受性や繊細さで仕事をしている役者さんとかネットで殴られたら、ほんとうに自殺してしまうのではないかと思う。
私は日本のゲーム業界におけるミュージックアドベンチャーゲームの頂点について考察していた。
あの禍々しいほどに美しいゲームソフト、シンフォニック=レインについてである。
このゲームの音楽を担当したクリエイターは既にお亡くなりになっている。
伝説のゲームソフトだ。
シンフォニック=レインの主人公は音楽家だった。
フォルテールという楽器の演奏者である。
彼はただ発表会のとき大勢の観衆を喜ばせたい。ただその一心でフォルテールを弾いていた。
クリスは常に全力であり、そしてある出来事から壊れていた。
精神が壊れていた。
ゲームスタート時から精神が完全に破壊された状態でゲームがスタートする。
彼のフォルテールの音色は彼の精神が破壊されればされるほど綺麗な音色になる。
発表会のとき、お客さんに喜んでもらおうというただその一心で彼は演奏をする。
お客さんはみんなフォルテールの繊細で流麗な音色に大喜びし、拍手喝采を浴びせる。
だけどクリスの周りの近しい人たちは、仲間たちは、全員が涙するのだ。
精神を壊しながらの演奏だということを知っているから。
クリスの精神破壊とその対価としての美しい音色だから。
ほんとうは演奏してほしくなかった。
だけど、みんなの喜ぶ顔が見たくて、クリスは演奏してしまうのだ。
役者さんがネットの誹謗中傷で自殺するのって、これなんじゃないかなと考察していた。
繊細であればあるほど美しく振る舞える。感受性は鋭敏だし、それを芸によって発露できる。
ギリギリの感性で戦える。仕事ができる。
だけど、その対価として精神の安定性が奪われてしまうのではないか。
そんなことを考察していた。
ネットで匿名で役者やら障害者やらを殴るのはお得だ。
自殺しない限り(自殺しても一部の人しか)捕まらないため、殴り放題である。
障害者の場合ますその悪事を列挙し、殴っても良い下地を作る。
いやむしろ殴るべきだという風潮を構築し流布する。
損失は一切ないように見える。いくらでも殴り放題だ。
しかしネットで人の悪口を書き込んでいるとき、鏡で自分の表情を見てみると良い。
ニチャーって顔してるから。
で、職場で真面目モードのとき、上司やら同僚と笑い話しているとき、そのときの自分の表情をスマホで撮るなりして見てみると良い。
自分だけニチャーって卑屈な笑みを浮かべているから。
一見殴り放題で損失ゼロに見えるものでも、ちゃんと形而上学的循環が働いているのだ。
ネットでだけ殴りまくって会社でキリッっと、なんてならないから。
ネットでやった悪事は全部リアルの自分の性格の悪化という形で返ってきます。
還元されます。
他者を悪く言うのは損失であり、その損失の一切を受けるのは自分なのだが、快楽に溺れ、循環論を知らないためそれを繰り返し続ける。
仕方がない。
この世は他者との戦いではなく己の怠惰な精神性との戦いなのだが、気づいてないのであれば、それはもう仕方がないのだ。
真面目な人、誠実な人が一番信頼されるし、出世は自分がするものではなく、周りの同僚からあいつが出世すべきだ。
と言われるものなのだが、ネットでニチャーやってる人があいつが出世するべきだ。
って同僚に言われると、ほんとうに思っていますか?
と少し考察していた。
仕方ない。仕方がないと思った。
誰もアリストテレスの形而上学なんて勉強する人は(というか岩波の青ラベル読んでる人なんか)
日本にはもうほぼいないため、仕方がないと思った。
発熱のなかそんなことを考察していた。
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